「宗司さんは大丈夫よ。どこにも大きな怪我はないし、今は事故のショックと疲れで眠っているだけ。すぐに目が覚めるわ。だから彩寧も心配しないで」 静かに寝息をたてる宗司さんを見て、私の表情は慈愛に満ちる。 宗司さんは本当によく眠っていた。 しかしそれは日々の疲れが蓄積していたということでもあるので、そうした宗司さんの支えになれていなかった自分を不意に私は恥じたが、すぐに頭を振ってネガティブな考えを追い払った。 私は誓ったのだ。これから強くなる。宗司さんにふさわしい妻になる、と。「そ、それより彩寧はどうしていたの? 元気にしていたの? 宗司さんから少しだけ聞いたわ。宗司さんの会社に入社したそうね」 私は彩寧に友好的に語り掛けたが、彩寧は敵対的な目で私を睨んだ。「私がどこでどうしていたかなんて、充希には関係ないでしょ」「そ、そんな言い方をしないで。私は彩寧のことを心配していたのよ。だって───だって彩寧は私の大切な妹だもん」「心配するだけなら誰にだってできるわよ!」 彩寧が大きな声を出す。「あの時───私が母・真紗代に連れられて大和田家を去る時、何も言わなかったくせに……、何もしなかったくせに……。 今更、姉ヅラなんてしないで! 充希となんて姉妹でもなんでもない! 赤の他人なんだから!」 いつにも増して刺々しい彩寧の反発に、私は語り掛けが裏目にでたことを悔やんだ。 とにかく病院で大きな声は出して欲しくなかったので、私は彩寧に謝罪し、彼女に落ち着いてもらおうとした。「彩寧、ごめんなさい。あなたの力になれなかった自分の非力を本当に恥じているの。あ、あの時は……。本当に突然の事だったし、私もどうしたらよいのかわからなかったの。彩寧が連れていかれることも、それがどうしてなのかの意味も分からなかったし、家同士の話し合いで彩寧と宗司さんの交際が始まったばかりだったのに、その事もどうなってしまうのかなども心配で……」「見え透いた嘘はやめて! 充希があの時、何もしなかったのは、内心で喜んでいたからよ。私が大和田家からいなくなってせいせいしたんでしょ? これで宗司先輩と私の交際がご破算になると、好都合だと思ったんでしょ? 充希はいつだってそう。なんでも自分の思い通りになるの。あなたは周囲
「宗司先輩とあの時、お別れをしなければよかった……。あのままずっと二人で一緒にいれば、宗司先輩がこんな事故に遭うこともなかったのに……」 尚も彩寧は、私に聞こえるように宗司さんに呼びかける。 彩寧は特に「ずっと二人で一緒にいれば」という部分を強調した。 それが何を意味するか私にわからせる為に違いなかった。 私は動揺しかけたが、彩寧の言葉には、私を惑わす目的で作為的な誇張が織り交ぜられることがあるとわかっていたので、安直にその手には乗らなかった。「あ、彩寧は事故の前に宗司さんと一緒にいたのね。それで責任を感じてすぐにお見舞いに駆けつけてくれたんだね。宗司さんを心配してくれてありがとう」 私は努めて大人の対応を心がけ、彩寧に対して労いの言葉を掛けた。 それが彩寧に対して効果があるとは思っていない。 しかし、少なくとも、彩寧が私を引き込もうとする土俵に乗せられ、思うように翻弄されたりしないという抵抗の意思表示はできると思っていた。 彩寧はそのことを忌々しく思うだろう。でも、これで無益な争いをエスカレートさせることは防げるかもしれないと私は考えた。 そしてこれは今、この場で私が考えた方法ではない。 いつの頃からか、絶えず敵対行為を仕掛けてくる彩寧に対して、私が身に付けた処世術だった。「この病院、ちゃんと患者さんをみてくれているの? 宗司先輩をほったらかしにしていない? すごく心配なんだけど本当に大丈夫なんでしょうね?」 彩寧は私を睨みつける。「わかっているの? 宗司先輩は大企業の社長なのよ? 一般人とは違うんだから、ちゃんと病院も対応してよね! もしものことがあったら絶対に許さないんだから!」 彩寧は語気を強めるが、その身勝手な発言は、さすがの私も捨て置けなかった。「病院に来られる患者さんは皆さん等しく誰かの大切な人よ。家族だったり、恋人だったり、友達だったり。だから病院は分け隔てなく皆さんを平等に、全力で治療している。誰一人として疎かになんてしていないわ」 私は、日々、医師や看護師、その他にもたくさんの病院関係者の方々が患者さんの治療の為に奮闘している姿を目の当たりにしているので、安易にそうした人たちを蔑んでは欲しくなかった。 その為、私は彩寧を刺激したくはなかったが、つい言葉が口をついて出て
「ど、どうして彩寧がここに!?」 私は本当に驚く。 彩寧も同様に驚いたようだったが、すぐに顔をしかめて不快感をあらわにすると「チッ……。ひょっとしたら充希と出くわすかもと考えたけど、まさかこんなにすぐに出くわすとは思わなかったわ」と吐き捨てた。 そんなに嫌がらなくても……。 舌打ちまでしなくても……。 私は胸がズキッと痛む。 私たちは母親が違っても、父親を同じくする姉妹であることに変わりはないのに……。 それに、まだ二人とも幼く、本当に子供だった頃は、一緒に仲良く遊んでいたことだってあるのに……。 それなのにどうして彩寧はこんなにも、私を憎悪の対象としてみるようになってしまったのだろう……。「私は宗司先輩のお見舞いに来ただけよ。充希は関係ないからそこをどいて」 彩寧は半ば突き飛ばすように私を押し退ける。 私は危うく倒れそうになって、慌てて壁に手をついて身体を支えた。 今、私は転ぶわけにはいかない。 もし尻もちでもついたらお腹の子供に影響があるかもしれないからだ。 そう危機感を覚えた私は転倒しないように懸命に堪えた。 彩寧はそんな私のことを気にも留めず、宗司さんに駆け寄る。「宗司先輩……!」 そして私とは打って変わった猫なで声で宗司さんの名前を呼ぶと両手で宗司さんの手を握った。「ごめんなさい、宗司先輩。私が宗司先輩に無理を言ってラウンジのバーに連れて行ってもらったせいで……。その帰りに宗司先輩が事故に遭うなんて。私と会うことで宗司先輩がこんな目に遭うなんて思ってもみませんでした。本当にすみません」 彩寧は殊更に自分が事故の直前に宗司さんと一緒にいたことを強調してくる。 それは宗司さんに呼びかける為ではなく、私に聞こえるように言っている意図が見えて、私は自分が意地悪をされていると感じた。 しかし、それ自体は愉快ではなかったが、傷つくことはなかった。 何故なら、もういつの頃からか、彩寧は私に対してずっとこういう当てつけのような意地
私は何に対して宗司さんに謝っているのだろう? そこには様々な思いが込められている事に私は気付く。 ───離婚届にサインをしたこと。 ───そして何も言わずに家を飛び出したこと。 ───私が至らないばかりに迷惑をかけたこと。 ───妊娠したこと。 ───そして妊娠している事をまだ伝えていないこと。 話したいことが洪水のように溢れ出る。 話したいことが津波のように押し寄せる。「宗司さん、聞いて欲しい。宗司さんと話がしたい。そして宗司さんに聞きたい。色々な事をいっぱい聞きたい。 私のことを好きですか? それとも嫌いですか? 私のどこがいけなかったの? 私はどうすればよかったの? どうして離婚届を私に突き付けたの? どうして彩寧と二人で歩いていたの? 私、妊娠しました。宗司さんの子供よ。私との間に子供ができてどうですか? 嬉しいですか? それとも───」 まだまだ聞きたいことが滔々と溢れたが、これ以上、私は言葉を続けることができなかった。 喉の奥に固いものが込み上げ、声が詰まったのだ。私はボロボロと涙を流して嗚咽した。 私は宗司さんの手を握る。 すると、宗司さんは私の手を握り返してくれた。 宗司さんに意識はない。まだ眠ったままだ。それでも宗司さんは確かに私の手を握り返してくれた。 それだけで十分だった。 私の様々な不安や疑念が急速に和らぐ。 そして強い考えが沸き上がる。 宗司さんになんと思われていようと、昨日誓った通り、私は私であるべきだわ。 そして私は強くなる。宗司さんにふさわしい妻になる為に。 宗司さんに認めてもらうんじゃない。私が宗司さんに認めさせるの。 そうでなければ本当の意味で宗司さんにふさわしい妻にはなれない。 私は涙を拭うと立ち上がり、業務に戻ることを決意する。 ここで宗司さんを心配して泣いていたって何も変わらない。 それならば、私は自分がやるべきこと、自分ができることをするべきだ
「充希、おはよう。来て早々に悪いけど、この書類をお願い」 母は、クリップボードにまとめられた書類の束を私に渡す。「昨晩、緊急搬送された男性の必要書類よ。緊急事案だから今すぐ処理をお願い。病室の番号はここに記載された通りよ」 母は書類の項目の中で、病室の番号が記載された箇所を指さす。「すぐに行って。そして患者さんの様子を見てきて」 母の言わんとしている事を私はすぐに理解した。 あくまで業務として周囲に迷惑をかけず、宗司さんに会えるよう仕向けてくれているのだ。「お母さん……」 私は感謝の気持ちで喉を詰まらせる。 しかし、ここで涙を流している場合ではない。 私はぐっと涙を飲み込んだ。「ありがとうございます。わかりました。すぐにこの業務にとりかかります」 そう言って母に頭を下げると、私は大急ぎで病室に向かう。 といっても、院内は緊急時以外、走ることは禁止されているのと、私はお腹に赤ちゃんがいるので、少々の駆け足は問題ないが、万が一、転んだりしてお腹を痛めてはいけないので、走らず、可能な限りの早歩きで病室に向かう。 宗司さんの病室は病棟の奥のようだ。 私は焦る気持ちを抑え、長い通路を進む。 しかし、病棟の廊下は長く、なかなか辿り着かない。 動悸が高まり、息が切れて苦しくなる。 私は努めて大きく深呼吸するように息を吸い、先を急いだ。 そしてようやく宗司さんの病室に辿り着く。 そこは数人の患者さんが一緒に入院する「大部屋」ではなく、患者さん一人の為の個室だった。 ドアの窓から中の様子を覗くと、そこには───。 ───いた! ───宗司さんだ! 病室のベッドに宗司さんがいた。 瞬間的に私の視界は涙で歪む。 私は飛び込むように病室に入った。 宗司さんに駆け寄ると、宗司さんは穏やかな寝息をたてて眠っていた。 久しぶりに宗司さんの顔を見られて私は歓喜に心身が高揚する。 しかし、その歓喜に身を委ねてばかりもいられない。 私はすぐに宗司さんの様子を確認する。 頬や腕に怪我を治療したガーゼや包帯が巻かれていたが、いずれも大きな怪我ではなさそうだ。 額に少し打撲した痕があったが、少しぶつけた程度の腫れだった。 車が爆発炎上するという大事故
いつも通り病院に出社した私は周囲の噂話にまみれる。「昨日の車の爆発炎上の事故、凄かったね」 「この病院の近くで、あんな事故が起こるなってびっくり」 「あの事故で怪我をした男性が、うちの病院に搬送されたそうよ」 「そうなの!? 確かその男性って大企業の社長さんよね?」 「警察の方も大勢来るでしょうから、今日はいつも以上に騒がしくなるかもね」 私は気が気ではなかったが、落ち着くよう自分に言い聞かせ、目の前の業務に集中した。 病院には大勢の患者さんが来院される。 その内、誰一人として重要でない人なんていない。 誰しもが誰かの大切な人で、私の取り扱う業務は、そうした人たちにとって重要な手続きや事務処理なのだ。 私が宗司さんを大切に思うように、来院者の皆さんも誰かを大切に思っている。 私の業務は、そうした方々の思いや期待が寄せられる業務なのだ。 たった一つの会計処理だって、決して疎かにすることはできない。 私は落ち着かない心を必死に抑え込み、目の前の業務に喰らいついた。「充希さん、目が赤い。───泣いてるの?」 私を気遣ってやって来たのは崚佑さんだった。 私は「え?」と思ったが、その瞬間、自分の目が涙でいっぱいだったことに気付いた。 慌ててハンカチで目頭を押さえる。「情緒が不安定。知らず知らずに涙が溢れる。妊婦さんによくあること。温かいお茶を飲むと気持ちが落ち着く。おすすめはルイボスティー」 崚佑さんは、私が妊婦特有の気持ちの浮き沈みが出ているのだと勘違いしたようだ。 矢継ぎ早にどうすれば気持ちが落ち着くかをあれこれアドバイスしてくれた。 私は、今、自分が涙を浮かべていたのは別の理由であるとは思いつつも、崚佑さんの気遣いに水を差すことはせず、言葉を受け入れた。 そうして私たちが会話をしている所に、母・碧が急ぎ足でやってきた。 私は母の姿を見て、思わず席を立ち上がった。